糸井重里さんの「インターネット的」を読んだ。

なんか書きたいことは山ほどあるくせに、書く時間を取らず、まして今書いてる瞬間には何を書こうとか決めてない自分が嫌だなぁと。

なんかやることはたくさん作り出してるくせにどれもこれも中途半端に手をつけてる。

一つ一つと丁寧に向き合わないとなぁと思ってる一方で、いつもの自分でいつもどおりなんだと思ってちょっと安心してる。

今日読んだ本。

インターネット的 (PHP新書)

インターネット的 (PHP新書)

以下、心に残ったことばたち。


久しぶりに、書こうと思ったきっかけ。

考えたこと、やってみたいことを惜しみなくだし続ける。枯渇するのではないかとか、後でもっといい使い道があるとかを考えずに、出して出して出し尽くして枯れたらそれでしかたない、というぐらいの気持ちがないと、日刊でまがりなりにも「新聞」を出すことなどできません。

アイデアのヒントがまだ幼いうちに他者に向けてなんとか出してみる。そしてたくさんの相手が、「未完成だけど、ポテンシャルを感じる」と言ってくれたらしめたものです。


インターネットのコンテンツについて。"くだらなさ"。ボクには2ちゃんねるをイメージしました。

もっと間抜けで、もっと豊かで、もっと自由なものが、世の中にはまだまだ潜んでいるはずです。みんながバカなことを言っている人がいるんだけれど退屈しないというような、ときどきマジになるんだけどそれがまた面白いというような、ぼくの一番好きな世界がまだまだ広がりきっていない。

糸井重里流プライオリティの決め方

「やりたければやる」「選びたいものがあったら、もっといいものを待つよりも、すぐやる」

インターネット的「あなた」

役割は点滅しているのです。

これは激しく同意するのと同時に、相手の役割も点滅していることを受け入れることが自分にできているのかは疑わしい。

ボクが慣れないmixiFacebookなんかは、その点滅を許してないように思えるんですね。ザッカーバーグなんかは「アイデンティティは一つしかない」なんて言ってますが、自分の実感としてそんなことないんですよねぇ…。だから苦しくなって放置してるのかもなぁ。

「ちょうどいい」を見つける方法。

一番極端なことをいったん考えてみる。そうしたら、「そこまではいらない」とか「それはひどい」「それじゃ意味がないじゃん」とか、自分の心の底のほうにあったほんとののぞみがが、輪郭を持ち出すと思うんです。

商品について。

商品とは環境を含んでの商品なのですから、お客さんはその環境をぜんぶふくめて求めているということです。

アイデアについて。

 ぼくがアイデアを思いつくときは、おそらく、はらわた付きだと思うのです。
 「オレ、何が言いたいのか、まだ整理できてないんだけどさぁ、わかったよ」などというセリフをよくいいます。伝えるまでには至ってないけれど、自分にはわかるというあいまいな領域があるのですね、きっと。

すんげーわかる。ボクも口癖で「よくわかんないんだけど、わかった。」などど訳の分からんことを言ってしまうんですけど、その時はこの感覚なんです。うわぁうれしいなぁ。

書きかけ、考え欠け、でき損ない。そういう文章やアイデアを、自分のコンピュータの冷蔵庫に、ぽんぽんと雑に放り込んでおきましょう。整理なんかできてなくても、気にしないで。

なんか、思考の整理学でもおんなじこと言ってたような…。読みなおすか。

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)


糸井重里流、問題発見法

 いつも食べていたものが、まずく感じられた。恋人との間に、何となく楽しさがなくなった。毎日の運動が、ずいぶん疲れるような気がしてきた…どれも、不快のサインが出ているわけですね。これに気づくのが、問題の発見です。

これに気づくことができれば、解決法なんぞたくさん出てくるだろと。解決策が分からない=問題が分からないってことなんでしょうね(実感としてあります)。

他にもいろいろありますが、疲れたのでこの辺で。

まだまだ元気がある方は、こちらのポッドキャストなんかはいかが?

文化系トークラジオ Life: 2006/11/18 「糸井重里さんを迎えて」 アーカイブ